ツバメ返しとお習字のカンケイ

ツバメ返しってどんな技?

創作や講談などで有名な佐々木小次郎が使う必殺剣、ツバメ返し。長い太刀で飛ぶツバメをも切り落とすという剣技。一太刀目を躱しても、続く二の太刀で切り倒される。そう語られている技です。
これは、『虎切(こせつ)』と呼ばれる技で、もともとは『虚切(きょせつ・こせつ)』と呼ばれていたものが、技の本質である偽りの一太刀目というものを隠すために文字を変えたとされています。

偽り、虚構の一太刀目であれ、そこで打ち取られる者も少なからずいたことでしょう。正しくは、二の太刀に続けるための心構えであったのかもしれません。 ゆえに、決まった太刀筋の技ではなく、剣を振るう際の技そのものであったというのが現状の解釈です。

少し前まで思っていたこと

このコラム、ひがな剣術三昧で以前に出していた通り、剣術というものは結局のところ『間合いに入ったものに剣を振り当てる』だけのもので、躱されたら即斬られるもの、躱して斬るものです。いかにもな『ツバメ返し』の解釈に疑問を持っていた時期があります。

その中で思い至ったのが、『虎切』がツバメ返しに至った理由です。
虚切が虎切に変わったのは理解できます。しかし、なぜそれがツバメになったのか。

ツバメに隠された意味

剣術において、振る剣の切っ先は決して遠心力や腕力の加速を期待して流れてはいけないものです。腕は体の中心線に沿って動き、横の動きは足と腹ごと胸と腕を伝わり切っ先に伝わります。振りぬいたときに身を止めても、刀は必ず体の中心線に乗った形で支えられています。

このことを踏まえ、『ツバメ』という言葉に注意を傾けてみましょう。ツバメを漢字で書くとしたら、皆さんはまず『燕』という字を思い浮かべると思います。『飛燕』という熟語もあるので、こちら文字が思い浮かぶ人が多いことと思います。

しかし、ツバメという字は、ほかにもあるのです。
漢字辞典の中で、一画で書く漢字。
漢数字の『一』の他にある、代表的な漢字、『乙』。
これでツバメと読みます。
乙という字は、一画です。一息に、書きます。
横薙ぎ、袈裟切り、横薙ぎ、そして跳ね上げ。
これが、一挙動。

太刀筋そのものが遠心力と腕力による加速を期待したものだと、こうはいかないでしょう。最後の跳ね上げにしても、切っ先は流れません。書道でいう、楷書の『はね』のように、スっと抜くように筆を立てたまま流れずに上げる動作。

ツバメ返しは剣術的に考えると、先述の由来を鑑みても、文字から推察できてしまうことがないように、技術をしっかり会得したものにしか伝わらないようにといった、このような真意が隠されていると見るほうが『面白いのでは』ないかと思う次第です。

お習字

最近、河合克敏先生のマンガ『とめはねっ! 鈴里高校書道部』を読破したのですが、剣術とは比べ物にならないほどの歴史を誇る『書』の物語に、これまたもう唸るばかり。
手本となる美しい書を自分でも書くために、キャラクターの一人がこう言います。「同じ字を書くには、千年前の人と同じ動きをしなければならない」と。
それだけではないのですが、この習字の漫画に語られる生徒たちの姿勢は、生半な求道者ではないな、と唸ります。

特に、二千年以上前の書を見て、こうであった、こうだったのかもしれない、いや、ではこうしよう……という姿勢が、枠にがちがちにはまっていそうな書道という世界が、つねにその枠は正しいものなのかどうかを己たち自身に問い続けている姿勢が素晴らしかった。 形や枠組みで形骸化してきた剣術と比べ、その真逆にあるような原点主義と、相俟って模索する新しい視点。そこが素晴らしくもまぶしかった。
全十四巻と長さもお手頃なので、みんな買って読むと良いですよ。

カンケイ

無理矢理カンケイを付けようと思っていたわけではなく、ツバメ返しの秘密に気が付いたことも書道のことも、その太刀筋(書き筋)に込めるために作られた剣(筆)の持ち方操り方が、すごく理に適ってるものなんだなあと思い知ったわけです。

背筋を伸ばし筆を立てる姿勢。
肩甲骨を広げ胸を締めて丹田から切っ先に力を込める姿勢。
楷書に始まり楷書に終わるといわれる世界。

正しいものを手本として、それが正しいのかどうかを常に問い続ける世界。上に行くほど現代では権威の幅が利かされているとは思いますが、書に向かう書道家の姿勢はすごいものだなと思います。

姿勢の共通点

何かを成すためにどうすれば一番いいのか。
それを突き詰めた結果生まれたのが、姿勢であり動きです(あえて「形」という言葉は使いません)。
目的を見据えて、しっかりとそこに至る過程を踏む。踏んでゆく。模索していく。その中で考え、正しいと思われるものを積み重ねていく。

これって、続けていく『流れ』のなかではすごく大事なことですよね。解釈の仕方でいろいろ変わるものの中で、それができるような考え方そのものの芯・正中線をしっかり養っていないと、容易く揺れ動き道から外れていってしまうことでしょうし、それがその時節において『正しいこと』となってしまったら、過去のホントウにたどり着くことは困難になってしまいます。
素晴らしいことに書道は結果としての『書』がいくつも残っていますが、剣術においては事前の心構えや教えの『虎の巻』などもありますが解釈する側の形骸化に悩まされている始末。

「今の時代、それでいいじゃないか」

という人もいますが、しかし、あえて「だめだ」と声に出すのは、ひとえにひとつの信念があってこそ。
自分の言動に責任を持つ。
そこに託された願いと自戒は、おそらくいろいろな方面で活きてくる大切なものではないかと思うことしきりです。
つまり何が言いたいのかというと、締め切りを守って面白い作品を仕上げてナンボという、いつもながらの自爆気味の悶々とした、なんというか以下略なわけですが。ううう。