書きたいもの書けるもの

はじめまして、AGJスタジオの西紀貫之と申します。エロゲのライターからディレクターを経て、古流剣術研鑽と創作小説を志して幾星霜。ラノベ業界劇画業界のライター漫画家劇画家編集さんにいろいろ教えられつつ、なんとか執筆活動を続けています。ということで、創作と剣術交えたコラムを書いていけたらいいな、と思います。

ゲームやチャンバラ好きが高じてバトルもの中心の小説を書き連ねてきましたが、本格剣術というものに出会ってから、自分の作風ががらりと変わってきた自覚があります。

バトルもの、とりわけ物語の決着やカタルシスがバトルとその後にある話を『書きたい』自分は、この剣術との出会いで『書けるもの』がぐっと増えて、転じて言えば、ぐっと減ったような気がします。

いわゆる古流の『剣術』は、世間一般に見られるそれらとは違い、非常にシビアで地味なものです。つまり、ほぼ一撃で勝敗を決する厳しい描写になりますので、エンターテインメント作品として派手なバトルものを繰り広げる場合に多用する『溜め』や『力み』とは真逆に当たる部分にキモがあり、傾倒するに従い、書き上げる作品のバトル描写がひじょうに玄人好みと言いますか、その内容自体はあっさり風味になっていることに悩んだ時期もありました。

この、書きたいものと書けるものが変化してきたとき、一番大事なものは、やはり『面白く書く』という一点に尽きました。

創作界隈を見ている中、『書きたいもの』を書きたいように書く人は多いと思います。もちろん書きたいように書いて完結させることは大事なことですが、書きたいことを書けていることだけに満足して、つまらない物を仕上げてしまったことに対して目を背ける方も多いように思えます。

「ご指摘有り難うございます。しかし今回は●●が▲▲することを書き上げることが目的でしたので、そのあたりは云々――」

などなどと言ったり言わなかったり。西紀自身も思い当たるところも多いのですが、結局はつまらないものが仕上がってしまったら、書きたいことを書き表せていたとしても、その見せ方が御粗末だったんだなあということになります。

およそ文学というものは面白くなければいけない――と言っていたのは明治の文壇の雄ですが、ご自分の作品のどこが『面白い』のですか?と問われたときに、自分の作品の『売り(=面白さ)』をきちんと言葉で説明できるようにしておくのは大事だと思います。

何がどうなるから面白いのか、その主軸に対して書けるもので肉付けしていく。その作業を意識して書けるかどうかは、恐らく大事なことではないかと思います。

そのあたりの理詰めの部分を嫌がる人もいると思いますが、結局は理詰めの銃弾も感性の引き金で撃ち出すしかなく、理屈も感性もどこまでもついて回る部分なのでしょう。この辺りは作品を書き続けている人なら意識せざるを得ないところなのではないでしょうか。

そこで話は戻りますが、地味な剣術でのバトルで盛り上げる手法と言いますか、話の組み立て自体をよく考えるようになったきっかけが、まさにそれでした。

本格的な剣術が描写されていれば物語として成功なのかと言ったらそうではなく、面白さに直結していなければ、そもそも書く意味がないということになります。面白さに直結していない場合は、添え物として無くてはならないギミックであるべきで、出すからには利用しなければならないというアレです。

さて、ならば書きたいことを面白く書くにはどうすれば良いものか。書きたいもの(外連味)を、書きたいキャラクターに表現させることがいちばんではないでしょうか。書きたいことを書き連ねるだけでは物語として表現することは難しく、物語として表現させるには演者たるキャラクターは必要不可欠と言えます。そんなキャラクターたちがまず魅力的であり、その上で書きたいものを表現させる。書きたいものを表現させるためにまたキャラクターを磨き上げて組んで行く。プロットに書き起こす前でも、このあたりは脳内妄想でかなり磨き上げていくことが可能なのではないでしょうか。

んで、忘れないように、そしてなおかつ魅力を自分の口で説明できるくらい理解している証拠として、書き記すというアウトプットで定着させる……という手順を、僕は良くやります。

このいわゆる『キャラクター』というものは、よく純文学だとか文芸だとかライトノベルだとか、そのあたりでさじ加減を加えるものではなく、おそらくはジャンルではなく方向性で――エンターテインメントという土台を踏まえた上で――設定ベースの、物語に出す必要性のある外連味を考慮した味付けをしていくものなのでしょう。

こうして考えていくと、自分の書く物語が「面白いな」「成功だな」と感じたときは、たいてい外連味を表現できるキャラクターが上手く出来ていたときなのを意識します。

多くは剣術なのですが、その剣術、戦う術を「もし持っていなかったとしても」魅力的かどうかを、いっかい立ち返るように考えることも多くなりました。

こいつは強くなくても魅力的だろうか。外連味の乗る抜け殻にしか過ぎなかったら、それこそキャラクターとして書く意味がないのだよなあと、ここで思い知ってしまったのです。

キャラクター性のたりなさをジャンルや作風を言い訳に使ってごまかしてやいないか。

外連味が乗った素晴らしい設定は「読み進めなくとも分かる面白さ」。魅力あるキャラクターは「読み進める面白さ」。書き慣れた盛り上げ方や情報の整理を含めたすべては「読み終えて分かる面白さ」。たいてい読み終えないと分からないモノを面白さとして謳ってしまいがちだったのですが、今は『こんな奴らがこんなことをする。面白いでしょう!?』という面を押し出して、物語の魅力を考慮することにしました。

自分の作品の「面白さ」を自分なりにしっかりと説明出来るようになってから、僕は自分の書くべきものがどう書いたら伝わるのか、その筋道がよく分かったような気がしました。小説という、読まなければいけない文字情報の固まりを、どうしたら読んで理解して想像して頂けるか。自分の書きたいものと書けるもののバランスではなく、そこは、それを搭載するキャラクターのパワーによるよころが大きいんだろうなあと思い知りました。

幅広い年代に受け入れられるか受け入れられないのかの端境は、今はジャンルではなく、このキャラクターの味付け云々ではないかと思い知り、一般文芸だからとかライトノベルだからとか、そういった括りはそのあたりのさじ加減に過ぎない、どれも変わらぬエンターテイメント作品なんだよなあと、自分の崩されぬ正中線・中心線としてどっしり構えることにしました。

書きたいこと、書けるもの。そのバランスは変われども、基本は面白いものでなければならないという一点。それは自分の『強み』なのか『持ち味』なのか、いちどよく考えてみた時期があります。

ご自分のその『書きたいもの』『書けるもの』は、持ち味ですか?強みですか?